「新老人の会」和歌山支部パソコンサークルのブログです 「つれもていこら」とはみんな一緒に行こうの紀州弁です


by srwpc

カテゴリ:吉田 圭治( 33 )

熊野古道新聞記事

 今朝の毎日新聞和歌山版に「熊野古道みちくさ記」が掲載されています。著者の熱田親憙さんは大阪在住の元経済学関係の大学教授で、現在画家をされています。昨春、私の大阪の友人から、熱田さんが「熊野古道をスケッチして紹介する記事を書きたい」と言われているので案内して欲しい、と頼まれました。

 これから2年間程度(毎月第2、第4木曜日)掲載されますが、私はこの内何カ所かを案内させていただきました。感性の大変鋭い方で、熊野古道を歴史や信仰と言う面からだけでなく、古道が現代に何をもたらしているかを考えたいとの思いから歩かれています。記事の一部分を添付して紹介させていただきます。

d0160878_1342230.jpg
 (吉田圭治)
[PR]
by SRWPC | 2014-06-12 13:46 | 吉田 圭治 | Comments(4)

『ベルリンの壁』

 ウクライナ情勢が緊迫してきましたね。それで思い出したのがベルリンの壁です。第2次世界大戦後ベルリンが東西両ドイツに分断され、長い間「ベルリンの壁」と呼ばれる国境線で仕切られていましたが、今から25年前の1989年10月10日に東西ベルリン市民によって壁が破壊されました。

 当時、東ドイツ国民は西ドイツに行くのにハンガリーやチェコスロバキアに行った後、オーストリアを経由して西ドイツに行っていましたが、当時勃発した一連の東欧革命を受け、東ドイツ政府が旅行規制を大幅緩和して東ドイツから直接西ドイツへ行くことを許可したのが始まりです。これにより東西ベルリンの市民は「旅行が自由化された」と勘違いをして壁に殺到し、壁をハンマー等で壊しました。翌年東ドイツで自由選挙が行われ、東西ドイツ統一を早急に進める政党が勝った事により、東西ドイツの統一が実現しました。

 このような情勢の中、「共産圏から自由主義圏を比較調査する」という名目の旅行に参加し、ベルリンの壁崩壊現場を直接見聞することが出来ました。
 この写真から壁が如何に薄く且つ低いものであったかがわかると思います。こんな壁で長らくベルリン市民は不自由を強いられていたのですね。
d0160878_102310100.jpg
d0160878_10234538.jpg
 壁の破片が1マルク(当時約100円)で販売されていました。カラフルな色のついた破片は5マルクで、10マルク払うとハンマーを貸してくれて自分で壊すことも出来ました(*^。^*)
d0160878_10271280.jpg
d0160878_10272230.jpg
(吉田 圭治)

[PR]
by srwpc | 2014-04-17 10:35 | 吉田 圭治 | Comments(2)
『冨田坂・草堂寺~三ヶ川』
草堂寺前の国道42号線沿いに建つ看板
d0160878_10103532.jpg
d0160878_10111643.jpg
 草堂寺広場にて出発前の準備体操
d0160878_10123392.jpg
 語り部さんの説明。厳しいコースを予想して語り部さんとサポーター3名がついてくれました。総勢35名で元気よく出発。
d0160878_10134781.jpg
 『一里松跡石碑群』
d0160878_10153987.jpg
 急峻な七曲り坂を喘ぎ喘ぎ約2時間登る。本日の一番苦しい始まりでした。
d0160878_10163742.jpg
 途中、白浜方面の景色が広がる(パノラマ写真)。左手は白浜空港。
(画像をクリックし、更にクリックした画面の右下の+マークをクリックしてください)
d0160878_10165338.jpg
 『冨田坂茶屋跡』
大正8年まで営業していた。子供たちは今登ってきた道を毎日草堂寺の小学校まで通っていたとか。
d0160878_1019366.jpg
 そこから更に登って安居辻松峠に着く。
d0160878_10203519.jpg
 ここからは下りで、途中1500万年前の地層の露出を見る。
d0160878_1021281.jpg
 三ヶ川沿いに歩く。三ヶ川は三日に一度水が流れるというくらい水の少ない川だそうだ。前日に雨が降ったので水が流れていて癒された。
d0160878_10232413.jpg
 『梵字塔』
大日如来や阿弥陀如来など十仏の梵字を刻んだ石碑
d0160878_10242844.jpg
 終着点の日置川に着く
d0160878_10252139.jpg
 (吉田 圭治)

[PR]
by srwpc | 2014-03-08 10:26 | 吉田 圭治 | Comments(5)

がん封じ笹酒祭り

 1月23日、奈良大安寺の「がん封じ笹酒祭り」に行ってきました。併せてボケ防止に「安倍文殊院」へ、さらにポックリさんの「吉田寺」と、3寺を欲張って回ってきました。

 がん封じ笹酒祭り
 1月23日は光仁天皇(709~781)の御忌法要で光仁会が毎年行われます。天皇は皇太子時代は恵まれず、親交のあった当寺の住職と頻繁に笹酒を楽しまれましたが、験あって健康長寿を保ち、62歳の高齢で帝位につかれました。帝の健康にあやかり、癌などの悪病を封じて息災に過ごそうと行われるのが「がん封じ笹酒祭り」です。

d0160878_1184817.jpg
d0160878_1192089.jpg
d0160878_1194728.jpg
 安倍文殊院
 知恵を司る文殊菩薩が祀られている安倍文殊院は、頭の「ぼけ封じ」として知られ、9月の敬老の日には「ぼけ封じ大祭」が行われます。
d0160878_11123596.jpg
  吉田寺
 開基上人・恵心僧都が母親の臨終に際し、浄衣を着せ念仏を唱えられる中、大変安らかな極楽往生を見送られた。本尊の阿弥陀如来坐像は母親の追善供養と末世衆生救済の為に発願された。ご本尊前で祈願すると長患いすることなく、阿弥陀如来のお迎えを頂くことが出来るという霊験があり、「ぽっくり往生の寺」として知られている。
d0160878_11131950.jpg
 (吉田 圭治)
[PR]
by srwpc | 2014-01-26 11:21 | 吉田 圭治 | Comments(5)
熊野古道を歩く(第27回)

 今回は熊野古道最終の発心門王子から熊野本宮大社迄です。中辺路で最も人気のある代表的なコースで、距離も短く楽なコースです。

 「発心門王子」はかってここに四つの門がありました。南は修業門、西は菩提門、北は涅槃門、東は発心門といいました(『熊野歩行記』)。発心門とは仏の道に帰依する心を発する入口と言う意味で、本宮の惣門であり、神仏習合の名残を残します。発心門王子は九十九王子の中でも格別の五躰王子の一つに数えられ、ここからいよいよ本宮大社の聖地に入っていきます。
d0160878_13461198.jpg
d0160878_13472410.jpg
 発心門王子から約30分ほど平坦な道を歩くと、今は廃屋となった小学校の校舎が残り、その手前に水呑王子あります。内水飲、水飲、内湯などの表記がありますが、現在の王子跡には「水呑王子」の碑が建っています。
d0160878_13493160.jpg
 水呑王子から鬱蒼とした木々の間の古道を歩いて行くと、やがて視界が開けて前方に雄大な果無山脈が見渡せます。 
d0160878_13505770.jpg
d0160878_13513413.jpg
d0160878_13523010.jpg
 「伏拝王子」に伝わる故事に和泉式部の話があり、供養塔が建っています。和泉式部が熊野詣での道中、ここまで来た時に月の障りとなり、この身では大社に詣でる事はかなわぬと悲しみ、大鳥居脇の桜の下で歌を詠みました。
  晴れやらぬ 身の浮雲の たなびきて 月のさわりと なるぞかなしき
すると夜中に熊野の神が現れご託宣がありました。
  本よりも 塵にまじはる 神なれば 月のさはりも 何かくるしき
(もともと熊野の神は塵に混じって生まれた神だから、何も遠慮はいらない。どうぞお参り下さい)
d0160878_1453030.jpg
 伏拝みの地名は、熊野の神から詣でて良いとのご託宣があり、式部が喜びのあまりにここから遥かに伏し拝んだ故事に由来すると言われています。

 すぐそばに、NHKの朝ドラで有名になった「山中木の葉」の生家と「木の葉」が幼少の頃木登りをして遊んだ場所があります。
d0160878_1494783.jpg
 
d0160878_14113124.jpg

d0160878_14165687.jpg 伏拝王子から坂道を下ると三軒茶屋へ、更に九鬼の関所を過ぎ団地の中を下って行くと祓戸王子に着きます。ここで最後の潔斎をし身づくろい整えて熊野本宮大社に詣でました。

 元々「熊野本宮大社」は熊野川の中州「大斎原(おおゆのはら)」にありましたが、明治22年の大洪水で上四社の社殿を残してことごとく流失倒壊しました。明治24年、下祓所のあった現在の丘上に社地を遷しました。

 熊野は神武天皇の東征伝説や、イザナミノミコトの葬送伝承、又、捨身、火定(焼身)、補陀落渡海などの風習が伝わり、古くから死と転生、超現実(まぼろし)と現実(うつせみ)との交錯する幽玄界とみなされていました。すなわち、この世とあの世との境であり、あの世への入口と考えられていました。(「美しい日本の歩きたくなる道500選」より)。

 熊野本宮大社の主祭神は家津御子大神(けつみこのおおかみ)で本地仏は阿弥陀如来、又、熊野速玉大社の主祭神は速玉之男神(はやたまのおのかみ)・本地仏は薬師如来、熊野那智大社の主祭神は夫須美大神(ふすみおおかみ)・本地仏は千手観音として習合されました。いわゆる熊野三所権現で、権現の「権」は「仮の」で、仏が仮に神の姿で「現」れたものといいます。
d0160878_14223194.jpg
d0160878_1423681.jpg
 地図「発心門王子~熊野本宮大社」(地図をクリックで拡大します)
d0160878_14262924.jpg
 (吉田 圭治)

[PR]
by srwpc | 2013-06-17 14:33 | 吉田 圭治 | Comments(7)
熊野古道を歩く(第26回)

 今回は小広王子から発心門王子迄です。

 このコースはアップダウンが多く厳しい中級のコースですが、中辺路の熊野古道の中では最も古道の雰囲気が感じられる良いコースです。

 「小広王子」は旧道の小広峠にありましたが、現在は近野神社に合祀され、碑だけが建てられています。小広峠は「吼比狼(こびろう)峠」とも言われ、千匹の狼が旅人を魔物から守ったと言う伝説があります。
d0160878_1044228.jpg
 この付近は明治32年に県道(現旧国道)が開通するまでは、昼間も暗く不気味な峠であったと言われています。峠を下った所にかって熊瀬川集落があり、小広より早くから人が住み熊瀬川王子がありました。ただ、集落は明治22年の夏、この地方を襲った豪雨で壊滅的な被害を受け、全住民が移住した為今は墓だけが残っています。
d0160878_1049611.jpg
 墓地を抜けてつづら折りの急な坂道を登ると草鞋峠に着きます。この付近は「蛭降り峠百八丁」と呼ばれ、山ひるに悩まされた所だと言われます。峠からの下りが女坂で林道まで下ります。
d0160878_10505215.jpg
 林道から栃の川を渡って「岩神王子」迄の急な坂道を男坂と言い、女坂と二つ合わせて女夫(めおと)坂といい、麓の茶屋を媒人(仲人)茶屋と呼びました。ただ、H23年秋の集中豪雨で古道は寸断され、現在は岩神峠を越える迂回路になっています。
d0160878_10561279.jpg
d0160878_10564113.jpg
d0160878_10581850.jpg 岩神峠へは栃の川に新設された丸太橋を渡り、急な坂道を登ると谷を挟み前方に山々の視界が開け、岩神王子方向を望めます。山びこのこだまする絶景の地です。岩神峠からは再び急な坂を下り蛇形地蔵に出ます。
d0160878_10592912.jpg
 蛇形地蔵は元々岩神峠にあって、熊野を往来する人々が峠で「ダル」と言う妖怪にとりつかれて倒れる遭難が相ついだため、寛政年間に地蔵尊を建てて旅人を守ったと言います。明治22年の大水害の時には、岩神峠から不思議な音が聞こえ、村民は危険を感じて脱出し、難を免れたので感謝の意を込めて地蔵尊をここへお迎えし祀ったと言います。
d0160878_1124437.jpg
 湯川川を渡ると湯川王子があります。湯川氏の祖は元甲斐国の武田氏で、武田三郎忠長が熊野へ流されこの地に住んだので湯川性を名乗りました。忠長は奥熊野に出没した山賊を退治した功績が認められ、以来、口熊野、日高へ進出しました。

 道湯川の集落は後鳥羽上皇の御所もあった所で、江戸時代には人家も多く宿や茶屋もありましたが、明治の水害で廃村となってしまいました。
d0160878_1142813.jpg
 ここから又急な坂道を登ると三越峠に至ります。ここには現在立派な休憩所が出来ています。三越峠は西牟婁と東牟婁の境でここから先を奥熊野と言います。昔は関所もあり、茶屋もあったと言います。
d0160878_117362.jpg
 峠から下る途中、音無川の源流になる滝を見ながら下り、一見、上高地の梓川の雰囲気のある(水がもう少し多ければ)川沿いの道を進むと船玉神社に着きます。神社は熊野権現(スサノオノミコト)が玉の滝で修業した際に船を考案した場所とされ、熊野船が置かれています。
d0160878_1110414.jpg
d0160878_11111298.jpg
d0160878_11125443.jpg ここから発心門王子へは再び急な坂を登りますが、その手前に「猪鼻王子」跡があります。

 最後の急な坂を約15分程登ると「発心門王子」に着きます。

 地図「小広王子~発心門王子」(地図をクリックで拡大します)
d0160878_11213297.jpg
 (吉田 圭治)

[PR]
by srwpc | 2013-06-09 11:56 | 吉田 圭治 | Comments(2)
熊野古道を歩く(第25回)

 今回は牛馬童子から小広王子迄です。

 国道311号線の道の駅「熊野古道館」から山道に入ると箸折峠まで坂道が続きます。
d0160878_17402999.jpg
 箸折峠では花山院をモデルにしたとされる牛馬童子像が出迎えてくれます。

 冷泉天皇が退位した後、叔父の藤原兼家の推挙により幼い花山天皇が即位しましたが、兼家に孫が誕生してから状況が一変しました。妃を亡くし悲嘆にくれる花山天皇に一緒に仏門に入ろうと誘い、天皇が剃髪を済ませると自身は用事が出来たと言って寺を脱け出してしまいました。

 騙されたことを知った花山天皇は嘆き悲しみ、帰る場所を失った為熊野古道を始めとする巡礼の旅に出ました。 花山院が箸折峠で昼食をとられた時、箸が無かったので萱の小枝を折って箸にしたので箸折、その萱の軸が赤く染まったのを見て「血か露か」と尋ねられたので近露の地名の由来になったとの話があります。
d0160878_17452693.jpg
 箸折れ峠から下ってくると近露の集落が見渡せます。熊野街道の宿場として栄えたところで、江戸時代には10軒近くの宿屋がありました。
d0160878_17491292.jpg
 箸折峠を下ると日置川と民家のある集落に出ます。橋を渡った左側のこんもりとした森の中に「近露王子社址」があります。

 王子社は明治末年までは自然林に覆われ「上宮」と呼ばれていましたが、神社合祀令に基づく王子社廃止と森林伐採で今は元の姿はありません。この時、南方熊楠がこの地域の古代から続く森林の伐採に猛反対しました。近露王子周辺は伐採されましたが、継桜王子周辺では大木の杉(野中の一方杉)が残されました。

 この王子は各地の王子の中でも特に重要とされる準五体王子の一つで、王子社前の日置川でも参詣の前に川の水で身を清める「禊」を行いました。
d0160878_17551745.jpg
 民家の間の古道を行くと左手の小高い丘に「野長瀬一族の墓」があります。野長瀬一族は南北朝時代に栄えた豪族で、元弘の変以降楠木正成を助け、又、南都から熊野に向かった護良親王の危急を救った事が「太平記」にも記されています。終始南朝方の味方をしました。
d0160878_17584675.jpg
 しばらく登り坂を行くと右手に「乙女の寝顔」と称される優美な姿を見せる山が見えます。(写真ではすこしわかりにくいかも)
d0160878_18372761.jpg

d0160878_1839562.jpg 楠山坂を登り大畑を過ぎると左手山の中に「比曾原王子」の碑があります。享保8年紀州藩が緑泥片岩の碑を建てました。

 しばらく行くと「継桜王子」に着きます。奥州の藤原秀衡夫妻が熊野詣をした際、滝尻の岩屋(乳岩)に預けてきた赤子の無事を祈って杖にしてきた桜の木をそばの木にさして行きました。大きく成長した木は秀衡桜と言われ、当初は「継桜王子」の前にありましたが、現在は三代目となり、その木も2011年秋に倒れてしまいました。
d0160878_1841559.jpg
 往時の秀衡桜と倒れた秀衡桜
d0160878_1842586.jpg
d0160878_18431727.jpg
 継桜王子のすぐそばに有名な「とがの木茶屋」があります。
d0160878_18444440.jpg

d0160878_1849499.jpg 続いて先に進むと中川王子があります。中右記によると、この近くに仲野河仮所という仮泊所があったことが記されています。王子社跡も今は荒廃していますが、周囲には年代を思わせる大木の森があります。

 ここから約30分歩くと小広王子に着きます。
 
 地図「近露王子~小広王子」(地図をクリックで拡大します)
d0160878_18555882.jpg
 (吉田 圭治)

[PR]
by srwpc | 2013-05-25 19:45 | 吉田 圭治 | Comments(5)
熊野古道を歩く(第24回)

 今回は瀧尻王子から大坂本王子迄で、中辺路の熊野古道の雰囲気を残す代表的なコースです。

 急流(滝)が合流する地点(尻)にあるので滝尻と言われ、そこにある「滝尻王子」は熊野古道の中でも最も重要とされる五躰王子の一つです。熊野三山の神域はここが入口となり、参詣者は王子社に沿って流れる冨田川(旧岩田川)で水垢離をし、御歌会や御神楽を開きました。

 この王子社は800年前の面影を残している貴重な建造物で、奥州の藤原秀衡が、参詣途中ここで子が生まれた事を感謝して奉納したと伝わる古い剣が残っています。
d0160878_14572323.jpg
 滝尻王子からいきなり急な坂道が「不寝(ねず)王子」まで続きます。
d0160878_1523181.jpg
 滝尻の裏山中腹に「乳岩」と呼ばれる巨岩があります。藤原秀衡と妻が子供を授かったお礼に熊野詣でをしましたが、この地まで来た時妻が出産しました。赤子を連れて熊野詣では出来ないので、岩屋に赤子を授けて参拝を済ませて帰ってくると、赤子は岩から滴り落ちる乳を飲み、狼に守られてすくすくと育っていました。この民話は熊野の神々の霊力を物語るものとして語り伝えられています。
d0160878_1581517.jpg

d0160878_1584057.jpg 乳岩から少し登ると「不寝(ねず)王子跡」に到着します。中世には不寝王子の名は無く、江戸時代に入って、元禄年間の『紀南郷導記』にネジ王子と呼ばれる小社の跡があると記されています。一説にはこの王子は上皇たちが滝尻付近で宿泊した時、警護する者たちがここで寝ずの番をした所だとも言われています。
 不寝王子から約1.1キロさらに登っていくと飯盛山展望台に到着します。ここから前方には果無山脈が開け、又、眼下には冨田川沿いの栗栖川集落が見渡せます。
d0160878_15112773.jpg
 展望台から尾根伝いにテレビ塔に向かって歩くと針地蔵尊があります。更に進み民家が見えてくるとシイタケの栽培している所があり、そこからほどなくして「高原熊野神社」に着きます。
d0160878_15141823.jpg
 高原熊野神社の社殿は熊野古道では最も古い神社建造物で、春日造りの社殿は室町時代の様式で県指定文化財となっています。神社に伝わる懸仏(かけぼとけ)の裏面には応永10年(1403)の銘があり、若王子を本宮から勧請したと刻まれています。境内には樹齢千年とも言われる楠の大木が繁り鬱蒼とした雰囲気を醸し出しています。
d0160878_15171933.jpg
 高原熊野神社のすぐそばに「高原霧の里休憩所」があります。ここからは展望が良く、又、昼食をとるのに良い場所です。休憩所からは悪四郎山目指して尾根伝いに登り坂が続きます。約2キロ歩くと「大門王子」に着きます。

 この王子社は鎌倉時代の中期以降の成立と推定されています。古い社殿は江戸初期に失われ、その跡に紀州藩主徳川頼宣の遺命により建立されたと言われる石碑が立っています。本宮の下品下生の鳥居が建っていたので大門と称したと伝わっています。
d0160878_15212412.jpg

d0160878_15223826.jpg 大門王子から1.5キロ、左側に果無山脈を望みながら緩やかな上りを行くと「十丈王子」に着きます。この王子社は1109年の「中右記」にもすでに登場していることから、比較的早く建てられたものと思われます。江戸時代には茶店も数件あり、旅人は悪四郎山への登りを前にここで一息を入れました。
d0160878_1525120.jpg
 熊野古道には飢えや病と闘いながら詣でる人が多く、行き倒れになる人も多くいました。こうした人たちの供養塔が古道のあちこちに見られます。十丈王子から400メートルほど登ると、小判を口にくわえて行き倒れた人を祀ったと伝わる「小判地蔵」があります。

 十丈峠を過ぎると視界が広がり、すがすがしい雰囲気の山道になり、少し歩くと「上多和茶屋跡」に着きます。三体月が見える場所の一つと言われています。三体月とは熊野地方に古くから伝わる伝承です。

 その昔、熊野三山巡りの修験道者が高尾山の頂に来た時、この三体月(月が同時に三つ見える)を拝んで大変な法力を得たと言う話が広まり、その後村人たちもその神秘な現象を拝んで霊力にあやかろうと、旧暦の11月23日の夜、三体月を見る風習が広まりました。毎年「三体月を見る会」が行なわれ、夜中の11時過ぎに山に登り、ホラ貝や雑煮をいただきながら月の出るのをじっと待ちます。実際に見られるのはほとんど期待出来ないようです。

 ここから逢坂峠へは急な下り坂となります。「大坂本王子」は建仁御幸記にでており、この王子は逢坂峠の坂下にあります。県道脇の杉木立の中に壇の跡ががあり、そこにある石造りの笠塔婆は鎌倉時代後期のもので、滝尻王子や大門王子などにも同様の物があります。
d0160878_15275445.jpg
 地図「滝尻王子~大坂本王子」(地図をクリックで拡大します)
d0160878_1533311.jpg
 (吉田 圭治)

[PR]
by srwpc | 2013-05-12 16:07 | 吉田 圭治 | Comments(5)
熊野古道を歩く(第23回)

 今回は稲葉根王子から滝尻王子迄です。富田川(旧名岩田川)沿いの古道で桜の時期には桜並木が綺麗です。

 「稲葉根王子」から岩田川沿いに1キロほど歩くと市ノ瀬橋にかかります。岩田川は中世、禊の川として知られ、下界の穢れを祓う重要な垢離場とされていました。

 住心院僧正実意の『熊野詣日記』には、女院がこの岩田川を渡渉する時、手を引くことは恐れ多いので、白布をつなぎ合わせ、その結び目につかまって、布の左右を従駕の者が捧持した、という記事が見えますが、岩田川の渡りは、皆等しく歩いて渡ったようです。
 岩田川 わたる心の ふかければ 神も哀れと おもはざらねや
(花山院・『続拾遺』)(「熊野への道」吉田昌生著より)

 市ノ瀬橋を渡ると前方に「興禅寺」(通称だるま寺)の達磨坐像が見えてきます。この像は第2次世界大戦の激戦地であった南方の国々の砂と釈迦生誕地のインドの土を混ぜて、慰霊と平和記念の為に先代住職の吉田啓堂氏によって建立されました。
d0160878_1535217.jpg
 再度、川の方角に下ってくると「一ノ瀬王子址」があります。「一ノ瀬」はもともと岩田川の渡りの「一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬」から来た地名と思われますが、旧村名の「市ノ瀬」から「市ノ瀬王子」とも表記されています。

 この川筋には南北朝の初めに山本氏が地頭として土着し、貴族たちが熊野詣でをする際に一ノ瀬王子から山中の護衛に当たっていましたが、天正13年(1585)、秀吉の紀州攻めで滅亡したとされています。王子の下手台地に居館跡があり、対岸の竜松山には城跡が残っています。
d0160878_15373420.jpg

d0160878_1541680.jpg 岩田川沿いに上り加茂橋を渡って2キロほど歩くと鮎川新橋のたもとに「鮎川王子碑」があります。『紀伊続風土記』に「鮎川は合川の義にして小名愛賀川の流 岩田川と合流するより起これり」とあります。王子は明治7年に対岸の住吉神社に合祀されました。
 鮎川新橋を渡ると住吉神社に出ます。住吉神社には坂本冬美が植えたしだれ梅の木があります。
d0160878_15425953.jpg
ここからは岩田川に沿って歩きます。左下の岩田川の清流が大変きれいですが、かなり細い崖道なので注意を要します。
d0160878_10181976.jpg
 道中には道祖神と庚申塚があり、旅人を守ってくれています。
d0160878_15475887.jpg
 更に上流に上って吊り橋の北郡(ほくそぎ)橋を渡りしばらく行くと清姫の墓があります。
d0160878_15501235.jpg
d0160878_1550119.jpg
 川に沿って上流へ約2キロ歩くと滝尻王子に着きます。
 地図「稲葉根王子~滝尻王子」(地図をクリックで拡大します)
d0160878_15534038.jpg
 (吉田 圭治)

[PR]
by srwpc | 2013-04-21 16:26 | 吉田 圭治 | Comments(3)
熊野古道を歩く(第22回)

 今回は紀伊田辺から稲葉根王子迄です。

 田辺から熊野本宮大社に向かって中辺路に入って行く事からこの地域は口熊野(熊野の入口)と呼ばれています。

d0160878_9373274.jpg 「秋津王子」一帯は、左右会津川に挟まれた氾濫原の低地で、永い年月の間の水没や水害などにより、現在では秋津王子の旧地や古道を辿ることは難しくなっています。

 江戸時代に入ってからも柳原から落合、更に安井という地へ移されました。その後秋津王子が祀られていたと考えられる安井宮が明治3年に豊秋津神社に合祀されました。(田辺市教育委員会、案内板より抜粋)。

 秋津野は雲の多い所、雲のできやすい所として知られ、万葉集に秋津と出ていて、雲を読んでいるところを指しました。熊野詣での旅人が亡くなって焼いた煙がいつもたなびいていたからとも言われています。

 岩倉の 小野ゆ秋津に 立ち渡る 雲にしあれや 時をし待たむ
(岩倉の小野から秋津にかけて立ち渡る雲のように、あなたは時の来るのをじっと待っているのですか、私は待っていられません)

 
 秋津王子跡から左会津川の近くを歩いて行くと「須佐神社」に出ます。須佐神社は、神武天皇が即位された時に祭祀されたという万呂三ヶ村の鎮守で、豊臣秀吉の紀州平定の時に焼き討ちを免れました。

 安永4年(1775)の記録に「獅子舞献し申す」とあって、11月23日には須佐神社の神事として「万呂の獅子舞」が奉ぜられます。特に寝獅子の際、天狗お多福が獅子を起こす所作は微妙であり、お多福が祠で作った陽物を右肩に担ぎ中腰で腰を振りまわる踊りは他には余り例を見ない五穀豊年を祈る神事です。(田辺市教育委員会掲示板より)
d0160878_957233.jpg
d0160878_1013393.jpg 
 左会津川にかかる熊野橋の北約50mの梅畑の中に「万呂王子跡」の碑があります。明治10年須佐神社に合祀されるまでは森があり王子の境内となっていました。

 万呂王子跡から東方に畑道を行くと三栖廃寺跡に着きます。「三栖廃寺」は奈良時代前期(白鳳時代・7世紀前半)の創建とされ、塔跡の位置等から法隆寺式伽藍配置で、寺域は方1町で三重塔が建っていたと推定されています。

 白鳳時代の寺院跡としては近畿地方で最も南であり、古代牟婁郡牟婁郷の中心地における郡寺とも考えられています。
d0160878_10102346.jpg
d0160878_10104969.jpg
d0160878_10151572.jpg 定家の『御幸記』には「ミス山王子」と記されています。室町時代ごろからは三栖から潮見峠越えの別ルートの道が開かれ、「三栖王子」は通らなくなって来ました。d0160878_10205584.jpg

 三栖王子跡から新岡坂トンネルを抜けると八上王子神社があります。

 「八上王子」は現八上神社境内に王子社としての面影を残していますが、潮見峠越えルートが開かれてからは八上王子も通らなくなりました。 

 西行が熊野詣での途中八上王子に立ち寄り

 待ちきつる 八上の桜 咲にけり 荒くおろすな 三栖の山風

という歌を詠み、社殿に書き付けたことで知られる王子社です。
d0160878_10265033.jpg
 「田中神社」は天然記念物で、南方熊楠命名の「岡藤(オカフジ)」があります。そばには縄文時代の大賀ハスが栽培されています。
d0160878_10283126.jpg
 八上王子から田中神社を経て稲葉根トンネルを抜けると「稲葉根王子」があります。ここは五体王子の一つで、田植の神、稲持神を祀っています。御行列はここで休憩し法楽の法要を行ないました。

 瀧尻(熊野の入口)より流れてくる水(神の水)に最初に出会う場所で、そこで水垢離をすると今までの罪がすべて消えるとされました。
d0160878_10331874.jpg
 地図「紀伊田辺~稲葉根王子」(地図をクリックで拡大します)
d0160878_10561872.jpg
 (吉田 圭治)

[PR]
by srwpc | 2013-04-07 11:17 | 吉田 圭治 | Comments(2)