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熊野古道を歩く(第7回)

熊野古道を歩く(第7回)

 今回は和泉橋本から泉佐野迄です。

d0160878_117537.jpg JR和泉橋本駅の線路付近は原の宮(鞍持王子跡)と呼ばれ、千石掘城の根来僧50人が集団自決した所で、現在はJR線で分断されています。

 鞍持王子はこの先の地蔵堂付近との説もあります。


 踏切を渡ると国指定史跡の丸山古墳があります。住宅地の裏庭のようなところにあり、全長70mの前方後円墳で古墳時代後期(6世紀初め)のものと言われています。天正13年(1585)豊臣秀吉が積善寺城を攻めた時、ここに本陣を置きましたが、被弾したので後退したと言われています。
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 丸山古墳の西方に正福寺があります。淳和天皇の時代(823~833)に建てられ、勝軍寺或いは近義地蔵堂と呼ばれていました。鎌倉・室町時代には広大な寺域を持ち、この地方の中心的寺院でしたが、永禄年間(1558~1570)に岸和田の三好氏が根来衆と戦った際に伽藍の殆どが焼失しました。寛文元年(1661)快栄によって再興され、正福寺の名に改められました。(寺の説明版より抜粋)
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 南近義神社は立派な社殿が建ち、旧称は丹生神社・天野神社といい、近木庄が高野山鎮守の丹生都比売神社(和歌山県天野の里にあります)に寄進された時、分霊が勧請されたと伝えられています。明治40年頃神社合祀令が発布された時、鞍持王寺・近木王子を始め近在の神社を合祀し南近義神社と改められました。
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 吉祥園寺は7世紀後半から8世紀前半の白鳳時代の開創と伝えられ、本尊は十一面観音立像で、貝に乗って川を遡り、貝田の森に出現したと伝えられています。ここに鎮座する吉祥天女像は『日本霊異記』によると「愛欲を生じ吉祥天の像に恋し感応して奇異を示す縁」(註)と伝えられています。

(註)『ある時、信州のお坊さんが吉祥天女像を見てその美しさに感動し、自分もこんな美しい女性と交わりたいと願って日夜お参りしていると、ある夜夢枕に美女が現れ念願かなって交わることが出来たので感激し、早速吉祥天女像にお礼参りに行ったところ、天女像の衣服の裾が汚れていたので、さては昨夜の美女は吉祥天女像様だったのか、と感動しました。』この話は、何事も一生懸命に念ずれば願いが叶う事のたとえに伝えられています。
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 鶴原王子跡は貝田会館の敷地内にありますが、王子跡の碑があるのみで、その横には地車庫が見られます。泉南地方では神社の境内に「だんじりの」地車庫が多く見られ、秋の祭礼では一斉に引き出され熊野街道や周辺の細い道幅いっぱいに引き回され大変賑やかになります。
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 顕如上人の遺跡は八百屋さんの庭の中にあるのでお断りをして入れていただくと、顕如上人の隠れ井戸の遺跡と由緒を書いた碑があります。顕如上人は信長の石山本願寺明け渡し要求に抗して11年間にわたって激しく戦ったが、その際に隠れたとされる井戸が残っています。
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 佐野王子跡は田園地帯の中に石碑が
 あるのみで、現在は春日神社に合祀
 されています。





地図「和泉橋本~泉佐野」
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 次回は泉佐野から和泉砂川迄です。

 (吉田圭治)

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by srwpc | 2012-07-06 11:54 | 吉田 圭治