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今回は牛馬童子から小広王子迄です。
国道311号線の道の駅「熊野古道館」から山道に入ると箸折峠まで坂道が続きます。

冷泉天皇が退位した後、叔父の藤原兼家の推挙により幼い花山天皇が即位しましたが、兼家に孫が誕生してから状況が一変しました。妃を亡くし悲嘆にくれる花山天皇に一緒に仏門に入ろうと誘い、天皇が剃髪を済ませると自身は用事が出来たと言って寺を脱け出してしまいました。
騙されたことを知った花山天皇は嘆き悲しみ、帰る場所を失った為熊野古道を始めとする巡礼の旅に出ました。 花山院が箸折峠で昼食をとられた時、箸が無かったので萱の小枝を折って箸にしたので箸折、その萱の軸が赤く染まったのを見て「血か露か」と尋ねられたので近露の地名の由来になったとの話があります。


王子社は明治末年までは自然林に覆われ「上宮」と呼ばれていましたが、神社合祀令に基づく王子社廃止と森林伐採で今は元の姿はありません。この時、南方熊楠がこの地域の古代から続く森林の伐採に猛反対しました。近露王子周辺は伐採されましたが、継桜王子周辺では大木の杉(野中の一方杉)が残されました。
この王子は各地の王子の中でも特に重要とされる準五体王子の一つで、王子社前の日置川でも参詣の前に川の水で身を清める「禊」を行いました。




しばらく行くと「継桜王子」に着きます。奥州の藤原秀衡夫妻が熊野詣をした際、滝尻の岩屋(乳岩)に預けてきた赤子の無事を祈って杖にしてきた桜の木をそばの木にさして行きました。大きく成長した木は秀衡桜と言われ、当初は「継桜王子」の前にありましたが、現在は三代目となり、その木も2011年秋に倒れてしまいました。





ここから約30分歩くと小広王子に着きます。
地図「近露王子~小広王子」(地図をクリックで拡大します)

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by srwpc
| 2013-05-25 19:45
| 吉田 圭治
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今回は瀧尻王子から大坂本王子迄で、中辺路の熊野古道の雰囲気を残す代表的なコースです。
急流(滝)が合流する地点(尻)にあるので滝尻と言われ、そこにある「滝尻王子」は熊野古道の中でも最も重要とされる五躰王子の一つです。熊野三山の神域はここが入口となり、参詣者は王子社に沿って流れる冨田川(旧岩田川)で水垢離をし、御歌会や御神楽を開きました。
この王子社は800年前の面影を残している貴重な建造物で、奥州の藤原秀衡が、参詣途中ここで子が生まれた事を感謝して奉納したと伝わる古い剣が残っています。




不寝王子から約1.1キロさらに登っていくと飯盛山展望台に到着します。ここから前方には果無山脈が開け、又、眼下には冨田川沿いの栗栖川集落が見渡せます。



この王子社は鎌倉時代の中期以降の成立と推定されています。古い社殿は江戸初期に失われ、その跡に紀州藩主徳川頼宣の遺命により建立されたと言われる石碑が立っています。本宮の下品下生の鳥居が建っていたので大門と称したと伝わっています。



十丈峠を過ぎると視界が広がり、すがすがしい雰囲気の山道になり、少し歩くと「上多和茶屋跡」に着きます。三体月が見える場所の一つと言われています。三体月とは熊野地方に古くから伝わる伝承です。
その昔、熊野三山巡りの修験道者が高尾山の頂に来た時、この三体月(月が同時に三つ見える)を拝んで大変な法力を得たと言う話が広まり、その後村人たちもその神秘な現象を拝んで霊力にあやかろうと、旧暦の11月23日の夜、三体月を見る風習が広まりました。毎年「三体月を見る会」が行なわれ、夜中の11時過ぎに山に登り、ホラ貝や雑煮をいただきながら月の出るのをじっと待ちます。実際に見られるのはほとんど期待出来ないようです。
ここから逢坂峠へは急な下り坂となります。「大坂本王子」は建仁御幸記にでており、この王子は逢坂峠の坂下にあります。県道脇の杉木立の中に壇の跡ががあり、そこにある石造りの笠塔婆は鎌倉時代後期のもので、滝尻王子や大門王子などにも同様の物があります。


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by srwpc
| 2013-05-12 16:07
| 吉田 圭治
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by srwpc
| 2013-05-06 07:34
| 川井 修
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